父方の伯母の法事に行ってきた。
オイラのオヤジは末っ子で兄弟は年が離れているので従兄弟はみんなオイラより年上。中にはオヤジと同年代の従兄弟もいて、そういう人とタメ口で話しているのを第三者が見たらオイラはさぞかし礼儀知らずに映るのだろう。
ってくらい混沌とした集まりになるのよ、このての行事は。
従兄弟の孫。え~と、オイラとはどういう繋がりになるんだ?又従兄弟?又又従兄弟?又又又又・・・・・。
よく分からんが可愛らしい高校生(男)と話をしたんだけど、どうやら進路が決まらずに悩んでいるらしい。そして事もあろうにオイラに相談しれ!と従兄弟が言ったとか。
いいのか?オイラで。あんたの孫の将来がどうなっても知らんぞ。オイラのような大人になっても責任持たんぞ。
と従兄弟を脅したら「そうだな、そりゃ困るな」と納得された。これはこれで寂しいもんだが仕方がない。
高校生くらいになると周囲から言われますな。「将来の夢は?」「やりたいことは?」って。
そこで「まだよく分からない」なんて返事をしようものなら「高校生にもなって」なんて言われちゃう。オイラにも経験があります。
でもね、高校生なんてまだまだ視野が狭いのよ。世の中が100だとすると10~20くらいしか知らないんじゃないかね?なのにその限られた中から夢だの就きたい仕事だのを決めろと言われても困るよね。
というか、高校生くらいで「これしかない!」なんてものが見つかっちゃったらそれはとても不幸なことだと思う。限られた狭い視野の範囲で見つけた「これ!」に全力で打ち込んだとして、上手くいかなかったらどうするのさ。自分に向いてないと気付いたらどうするのさ。もしこの先もっと違う「これ!」が見つかっちゃったらどうするのさ。
社会に出ればもっともっと色んな事を知る訳だし、想像もしなかった職業が有ることに気が付くわけだよね。
将来の夢や進路なんてもっと広い世間を知ってから、もっと広い視野を持つようになってからジックリ決めればいいと思うんだけど。
あぁ、もちろん突出した才能を持ってるなら話は別だよ。甲子園で活躍するような人は野球一筋の人生を歩んだって構わない。だけどそういう人は一握りじゃない?
読経の流れるお寺で正座しながらそんな事を考えていたら坊さんが話をし始めた。
「人は何のために生まれてきて何のために生きるのか」
だって。
これもまぁ生きてる間に一度や二度は考えますな。考えたところで絶対的な答えなど出るわけ無いんです、だからこそ宗教家がこういった話を好み、人は信仰にすがるんでしょうが、それでもやはり考えてしまうものです。
人が最期を迎えるときに人生の一部始終が走馬燈のように駆けめぐる、なんて話をよく聞きますな。
オイラこの話を信じています。んで、きっとこの時に人生を振り返りながら思うんですよ、「あぁ、オレはあの時にアレをするために生まれてきたんだなぁ・生きてきたんだなぁ」と。その時になってやっと知ることが出来るんだと思います、なぜ生まれてきたのか・何のために生きているのか、を。
この思い出が走馬燈のように駆けめぐる時間を与えられない最後を迎えてしまうと生まれてきた意味・生きてきた意味を知ることが出来ない。未練を残してしまうんだと思います。
なのでオイラの夢は「走馬燈が駆けめぐる最後の時を迎えること」。
要するに与えられた寿命を全うすることですな。
誰に看取られなくてもいい、一人きりでも構わない。畳の上じゃなくてもいい、路傍の草むらでも構わない。
ジックリと思い出に浸りながら「あぁ、色々あったけどそれでもまんざらでもない人生だったなぁ」と思いながら最後を迎えられたらどんなに幸せか。
だから苦しくても辛くても這いつくばってでも生きていかないといけないね。
「いい人生だった」と振り返れない最後は不正解なんだと思います。