誘われるままに付いていき、運転は人任せで車中ではずっと寝ていたので正直なところどこに行っていたのかもよく理解せぬままに帰ってきたのですが。
牛や馬が放牧されている一面の草原で午睡を貪り、薄暗い森の中を流れる小川の水で顔を洗い、無数に飛び交う蜻蛉を追い回し、降り注ぐような星空を見上げながら缶ビールを飲んで・・・・。
なんとも贅沢な夏休みを満喫させていただきました。誘ってくれた知人達には感謝の言葉も見当たらない。
のですが。
早朝に1人起き出して湖畔に座ってボケーッと景色を眺めていたら、やっぱりオイラは誰も必要としていないし誰からも必要とされないことを願っていることを再確認してしまった。誘ってくれた人達に対してなんと罰当たりなことを考えてるんだろ。
日々の生活で口にするものはオイラ以外の「誰か」が作ってくれているわけでして、オイラの元に運ばれるまでにも「誰か」の手によって流通していることを承知しています。消化して排泄されれば「誰か」の労力を頼りにして下水道に流れ浄化されるわけでして、どんなにあがいても自分1人だけでは生きていけないってことを十分承知しています。
だけど出来うる限り誰とも関わりを持たずに生きていくのがオイラの理想というか適した環境というか、誰もいない場所でポツンと取り残されたときに寂しさよりも充足感が先行してしまう。
それなのに、何度そういう環境を作り出しても最終的には誰かの名を叫んでしまう。耐えられなくなって誰かを求めてしまう。だけどその誰かはもうこの世には居ない。その事実を再確認したところでまた一人きりの環境を求めてしまう。誰かの代わりは誰にも出来ない、と。
今年もまた夏が終わると命日がやってくる。オイラがオイラを許せるまであと何年必要なんだろう。